プロフィール


はじめまして。心理カウンセラー  関 香澄と申します。
よろしけばプロフィールご覧いただければと思います。

①お父さんの顔色を見なければいけなかった幼少期。


私の父は家では、ほとんど笑顔がなく外では神様みたいな人だと言われ家では別人でした。
いつも怖い顔をしていて幼いながらに父の機嫌を悪くさせないようにしてた毎日でした。

 


②酒乱・暴言・中退・18歳で家を後にした学生時代。


中学からは父の怒りっぽさが目立ち過干渉が強くなり門限、父の訳のわからない価値観を
押し付けられ、その上お酒を飲むと酒乱になり気が荒くなり大人しくしているしかなかった。


過干渉⇒酒乱⇒暴言⇒威圧的⇒精神的に父の威圧的な態度に限界を感じ高校に入学してから
からは、とにかく家にいたくなくて、入学まもなくバイトを始めました。


家では、ほとんど見る事のない笑顔に囲まれる場、働く同士のくだらない話でさえ何より
楽しかった。お金もいただけて尚、父に会わなくていいので一石二鳥。



高校3年になりいじめにあうようになり内容こそはわからないが弱いものいじめのようなもの
だった。何より辛かったのは仲が良かった子が、一緒に圧をかけてきた事です。


ある日の朝、学校の正門も前で足がすくみ足が出ず高校卒業寸前で中退。心が折れ何もかも嫌
で18才で家を飛び出した。



③健全者から障害者(車椅子)になった地獄を見た20代。



21 才の時、突然の事故により脊髄を損傷した事で生活が一変した。健全者から「障害者・車椅子」

奈落の底に突き落とされ当たり前に動いていた【足が動かない!感覚がない!なんで!どうして?】


この先う生きて行けばいいのか頭が真っ白で方向性を見失い、まさに地獄を見た気がしました。
しばらく現実が受け止められず地獄まで落ちると人は涙すら出ないのだと思えた。



健全者の時は当たり前だと思っていた日常が当たり前ではなく階段が上がれない。トイレが狭くて
入れないなど。なかなか立ち直れない私に母はこんな言葉を投げかけてきました。



【人生は一度きり!一日たりとも戻らない!泣いて過ごすも笑って過ごすも同じ一生ならあなたは

どんな生き方をしたいの?】
と母に聞かれたが言葉が出なかった。絶句!・・?・・・無・・
答えもはっきり出ないまま時の流れと共に少しずつ心も取り戻していきました。


そして母から言われた言葉を思い出し、私は自分の心に誓いを立てました。


【私の長所は明るい所。ならば私は障害者だけど心の障害者にはならないと!】


自分の人生リセットして新たな自分で生きて行くと決心して障害者職業訓練校に入所して皮革製品
を学び一年間学びハンドバックのメーカーに就職しました。



④車椅子での結婚・出産・偏見に涙した30代。

会社で出会った方と後、結婚して二人の子供を授かったのですが、結婚イコール幸せとは思えない
私。入籍をしたいと思えず、子供を授かった後の健診繰り返すたび産科医の中には障害者に対する


偏見を持つ先生もおり育てきれず子供を捨ててしまうのではと言わんばかりに。子供さんの事も
考えてと、ばかりに圧を与えられ、しぶしぶ子供の為と思い入籍をしました。
旦那さんは仕事が上手くいかず働かなくなり結婚生活は暗雲が立ち込めました。



⑤幼い子供を抱えて別居・離婚・子育でて精一杯の40代


娘2歳息子0歳で別居。実家であったこともあり保育園に預けるまでは子育てに専念した。
仕事をする為保育園を探すが決まらず息子1歳、娘3歳時に保育園が決まり仕事再開。 
保育園は親子参加の行事が多いので子供の成長待ち息子が1年生の時に離婚となりました。

車椅子での生活・仕事・子育て。高齢出産だった事と自営業だったので親も忙しく高齢で頼れ
ない辛さがありました。


つまずく子育ての難しさ。育てにくい。子供の寝顔を見ては「こんなママでごめんね」と涙す 
る日々。娘は成長と共に、言動が強くなり中学・高校生になれば主張が強く口論の繰り返し。



⑥ADHDさらに統合失調症・恐怖で近寄れない50代


高校を入学をする頃いきなり娘に【私、検査したい事があるの】と言い出し精神科に結果は
ADHDと診断された。中学3年までADHDに私自身気付かず、幼少期からとにかく育てにくか
った。私の育て方が悪いと自分攻めをしてきた日々の繰り返しだった。大変だったけど無事に   
大学に入り喜ぶも、またも地獄を味わう。今度はADHDに加え統合失調症。今度は脳の病気で


幻覚、幻聴、攻撃的な態度が更に過激で家族も敵扱いされ恐怖で近寄れない。娘は獣のような
鋭い目つき目が吊り上がり髪毛は自分で切ってしまいザンギリ状態で、まるでカッパそのもの。


人間だとは思えない表情。外で暮らさせてみるが問題山住。雨が降れば菌が降ってきてると思
うらしく着てた服は洗うではなく捨てる。正気だとは思えない。口を聞けば暴言の数々、怒り
を通り越し怖くて家族ですら近寄れない。まさにお手上げ状態でした。


医者に行く事も病気を認める事も拒否してた娘、受診すらできずADHD専門機関に出向き必死 
でお願いして病院とパイプを繋げてもらい娘には内緒で民間の特殊救急で緊急入院となった。
救急車に乗るまで2時間説得され、それでも動じないため2人の救急隊員に腕をとられ救急車
に素足で乗るありさま。


最後まで階段の手すりから手を放さず【誰か助けて!助けて!】と言いながら病院搬送。
私は精神バランスを壊し娘の声を聞いただけ動悸と吐き気に襲われ入院して丸4か月面会でき
ませんでした。入院から5か月目に面会したのですが、あれだけ恐怖で面会できなかったので
すが会った瞬間泣き崩れてしまい【ごめんね。辛い目にあわせて!あーするしかなかったと】



娘は私が泣いている姿を見ながら大丈夫だからと涙ぐんでいました。一緒に行った息子は
「お前は、やはり母親だな」と一言いました。とても強く印象に残っています。



家族すら娘から手を放してしまった。悲惨な現実に。でも私は諦める訳にはいかなかった。
どんなに辛く泣いても私が諦めたら娘は生きて行けない。生涯娘に恨まれたとしてもいいと。


私は一人で立ち上がりました。最後は手荒な行動に繋げ特殊な緊急入院という形になりまし
たが 一か八かのかけでした。



どん底こそが娘を救える信じて。とにかく娘を救いたい。笑顔を取り戻したい。
決断力、行動力そして勇気を持ち一歩を出しました。明るい未来が必ず来ると。

特殊救急、緊急入院まさに強硬突破だったと思います。


結果的に半年前なら想像すら出来なかった明るい笑顔で半年後に退院しました。
まさに家族で止まっていた時が人生リスタートしました。



⑦家族にひさしぶりに笑顔が戻ってきた60代。


娘は服薬コントロールしながら春から社会に出るまでになりました。
息子も社会人となり家族に本当の笑顔が戻ってきたのは10年以上振りです。



◆現在

      ホームドラマに出てくるような温かい家族団らんとまでと言えませんが

      家族で集まれば楽しくて食事をとれるようになってきました。


◆未来
      辛い時には助けてと言える環境が貴方に平等に訪れますように。
     【助けてと言うのは恥ずかしい事ではない】助けを求めてもいい。
      自分の意志でどうにもならない現実。いじめや偏見、辛い現実がおきませんように。   
   



私は年代ごとに様々な悩みに直面し何よりも大切にしてきた事は、まずは自分自身が、なるべく
心穏やかに笑顔で過ごすように心がけてきた事です。中々そう思いながら子育て中はそうもいかず
苦しみに涙した事もありましたが、いつか辛さを乗り越えて先には笑顔があると信じてきました。
でも、今になって振り返ると、「もっと気軽に相談できる人がいたら、どうだったのだろうと!



確執や人間関係、方向を見失った方など私のようにやり場のない怒りや悲しみを抱える方。
ADHDで生きずらさを感じている方や懸命に頑張り寄り添っているママさんなど。


一人で苦しんで私のように悩んで自分攻めをしないでほしいです。
そのような方こそ是非、抱え込まずにカウンセリングにきていただきたいです。


一緒に明るい光を見つけて歩みを進めていただけるよう寄り添い精一杯サポートさせて
いただけたらと思っております。




・泣いて過ごすも笑って過ごすも同じ一生なら自分らしく生きる。

・幸せを望む心さえあれば必ず未来は開ける。

どん底には下はない。上がるしかない逆転チャンス。

人生は一度きり、一日たりとも戻らない。

・やらない後悔ならやって後悔する方が腑に落ちる。

・どんな自分も受け入れる。

・幸せになることを諦めない。


       苦しさを抱え、辛い現実にいる方こそカウンセリングを受けていただきたいです。
       私に寄り添いサポートさせていただければと思っております。


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